日本哲学史、その脈流 〜日本に哲学はあったのか〜

 日本の哲学史を考えることは、そもそも哲学するとはどういうことかについて、相応の熟考を求める。哲学と非哲学、その異同に対する真剣な答を迫られる。日本哲学史研究の第一人者である京都大学名誉教授の藤田正勝は『日本哲学史』(昭和堂)において、日本人が明治初期に西洋の先端知に触れた折、特にPhilosophyという営為について人々がどのように思索してきたのか、我が国の思想的基盤を踏まえつつ周密な分析を行なっている。帯文の通り、日本哲学を通史として概観できる斯界有数の名著である。

 明治より前、日本に哲学という言葉は存在しなかった。時の啓蒙思想家である西周によって哲学(Philosophy)という新造語が案出されるまで、西洋が古代から連綿と受け継いできた哲学という営為は存在しなかったのである。その理由は存外単純だ。日本には古代から仏教思想や儒学思想が十二分に伝播していたからである。但し、その東洋思想は専ら「子曰く」に代表される訓話的、訓戒的な読みを指し、先達への批判や通説に対する懐疑、検討の履歴に乏しかった。西洋の哲学は古来より過去の先人との建設的対話の上に構築されてきたのであり、日本にはそのような時空を超えた対話が存在しなかった。thoughtの訳語である「思想」だけがあり、規範的な先賢の尊崇と継承だけが行われていた。和辻哲郎は『日本倫理思想史』において、倫理、倫理思想、倫理学を峻別し、日本には未だ倫理学というものがないのだと喝破していた。それは「学」に至るまで、伝統思想に対する知的検証がなされていなかったということである。興を唆るのは、日本の伝統思想に自己批判の精神があったか否かという明治知識人の自問は、別段哲学だけの専売特許というわけでもなく、和辻が倫理学においてそうしたよう、学問全体へと適用できる射程を持つことである。そう、藤田の叙述が突きつける問いは、日本における学問全体の歴史を攻究する際にも有効な手立てとなるはずである。

 西洋の哲学が移入されるにあたり、東京大学文学部が果たした役割は大きい。特にデカルトからヘーゲルに至るドイツ哲学史が、西洋哲学史を受容するうえでのゲートウェイとなった。読者もよくご存知の東洋美術史家アーネスト・フェノロサも明治初期に西洋哲学史の講義において獅子奮迅の活躍を見せた。その他、ブッセ、ケーベルによる西洋哲学史の講義も見逃せない。興を唆るのは、三宅雪嶺の『哲学涓滴』にてフィヒテの三分法(trichotomy)が紹介され、その”図式的”な哲理の解読方法が、フェノロサによるヘーゲル哲学の紹介に影響を与えていることである。むろん日本以外でもヘーゲルの哲学が図式的に紹介されることはあるが、今日我々が使用するテキストではヘーゲルの弁証法(Dialektik)は殆どが正、反、合という止揚(aufheben)を図示するかたちの記載となっており、その背後にフェノロサの影響があったということである。

 ヘーゲルは大著『哲学史講義』において、非連続な絵画の陳列のように哲学史を叙述することは「阿呆の画廊」であり無意味だと批難した。内的連関に欠き、一貫した論理によって構成されない哲学史は無意味だと糾弾した。モーリス・メルロ=ポンティは『シーニュ』において「哲学の中心点はどこにでもあるが、その周辺はどこにもない」と語った。ヘーゲルの哲学は精神の発展に力点が置かれ、時代を下れば下るほど人間のGeistは進展していくという予断がある。ポンティは、そのような世界精神(Weltgeist)による史的総括を批判した。著者の藤田は、両者を例に哲学することと哲学史の叙述を関係づけ、そこに分かちがたいオーバーラップをみる。そしてその重なりや連なりを多少なりとも本書で体現している。哲学史を書くことと哲学をすることはどうしても切り離せない。

 文献上、京都学派という言葉が初めて使用されたのは戸坂潤の「京都学派の哲学」(『経済往来』1932年)であった。興味深いのは、その文章で戸坂は西田哲学や田辺哲学に批判的な眼差しを向けており、京都学派の出立点がいささか否定的なものであったということだ。それはその後の大東亜思想との接近、「近代の超克」という座談会を中心に巻き起こった戦争責任にまつわる論争に引き継がれている気がしてならない。田辺元も戦後「懺悔」という言葉を多用した。また、京都学派は必ずしも西洋の哲学的学統が有するような理論的支柱を持っていたわけではなく、京都大学周辺の人物が闊達な相互交流を行った「知的ネットワーク」(竹田篤司)、「哲学工房」(岩城見一)として捉えることができる。ジョン・C・マラルドのように、欧米の視点から京都学派の哲学を解読し、そこに独自の「絶対無」(西田幾多郎)という概念を見出すこともできるであろう。日本哲学固有の視座、それは禅思想に影響を受けた西田から、今を生きる我々に引き継がれた哲学的バトンなのかもしれない。然し、戸坂により炙り出された京都学派の言論空間においては、少なくとも西周がいう意味での西洋の「哲学」的態度が着々と各論者に血肉化されていたことは間違いない。ここに、日本哲学の揺籃が見える。

 その他、明治期における西周の先駆的な訳業から始まり、明六社、井上哲次郎、井上円了、中江兆民、清沢満之、大西祝、狩野亨吉、岡倉天心、徳富蘇峰、志賀重昂、陸羯南、綱島梁川、内村鑑三など枚挙に暇がないのだが、日本の哲学的系譜を一挙に通観できる好著である。最後に、既に新カント学派が衰微していた1920年代を境に多くの日本人が陸続と欧州各地への留学を果たしていることも忘れてはならない。時のドイツは戦後不安の真っ只中であったが、山内得立、九鬼周造、田辺元、阿部次郎、三木清、天野貞祐、阿部能成、高橋里美、務台理作、和辻哲郎、これも枚挙に暇がなく、彼らが海を越え、ダイレクトに師範の謦咳に接することで切り開かれた哲理が多々あったことを胸に留めておきたい。

藤田正勝著『日本哲学史』
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