『愛するということ』エーリッヒ・フロム著

 精神分析家エーリッヒ・フロムは『愛するということ(紀伊国屋書店)』の中で、愛についての唸るような理論とその習練の方法を書き下ろしている。劈頭、フロムは現代人の性愛においては、物見高く”対象”を凝視し、”愛されたい”という受動的な態度が前提となってしまい、愛するという能力、能動性については一向に考慮されていない事実を憂う。そのうえでフロムは断言する。性愛は技術である。ではなぜ、白馬の王子様のような空想に人々が陶酔するのか。フロムはその主因が、資本主義と番になった過度な消費主義や物の消尽、或いはフロイトを嚆矢とするリビドー(性的衝動)の偏重にあると見抜く。欲望を肯定する社会構造が、性愛の変遷にも影を落としているのである。特にフロイトは全ての人的な活動をリビドーの観点から捉え、性的な満足が訪れると人々は幸福になるはずだと予見したが、フロムはそれを棄却し、性的な依存症患者がどこまでいっても幸福にはなれない事実を持ち出す。故にフロムはフロイト左派であり、新フロイト派なのである(他にも社会科学と精神分析の融合という実績もある)。

 フロムは西洋の学問が軸に据えてきたアリストテレス論理学の思考が必ずしも性愛には適用できないと言う。別けても「排中律(AはAであると同時に非Aではあり得ない)」を退け、彼の造語である”逆説論理学”を肯定する。それは、インド思想や東洋思想が脈々と受け継いできた、異質性と同質性の混在である。矛盾しながらにして同一なるもの。性愛においてフロムが重視する状態は、恋人同士が精神的、身体的に自立していることであり、そのうえで両人が結合することなのである。1つではあるが2人である状態だ。その実、晩年のフロムはメキシコの自宅に彼の有名な鈴木大拙を招き、東洋思想に関する共同ゼミナールも主催している。今なお世界中で読み継がれる本書は、西洋の地にあって”自立した個人”という近代的自我に対するアンチテーゼとして十分すぎるほど機能したはずである。自立か依存かという二元論では語れない領域に、フロムが糸を通していく。

 精神分析において家族・親子関係がその後の対人関係に影響を与えていることは自明であるが、フロムも性愛と家族・親子関係の交わりを重視する。フロムにとって性愛の前提となる自立とは、父性と母性を自己に両有する状態のことであり、生育環境の中で適切な母権的性格と父権的性格を育んでいく必要があるという。だが何もかも順調に進むわけではなく、自立が損なわれる要因となる何かしらの”欠損”がある場合、フロムがマルクスを引いている箇所が参考になる。これは、精神分析の用語で言う「転移(transference)」や「投射(transference)」を乗り越えるうえで大切な至言であると私は読む。

 マルクスはこのことを次のようにみごとに表現している。「人間を人間とみなし、世界に対する人間の関係を人間的な関係とみなせば、愛は愛としか、信頼は信頼としか交換できない。その他も同様だ。芸術を楽しみたければ、芸術について学んだ人間でなければならない。後略」
       エーリッヒ・フロム. 愛するということ. 紀伊国屋書店, 45p.

※ とはいうものの、成人してからどのようにその欠損を補えばいいかについて明白な回答がないことが悔やまれる。

 フロムは終盤、東洋思想の影響か、常に娯楽を探し求めてじっとしていることができない多動な現代人に対し、毎朝20分ほどの瞑想を推奨しており、読みながら「そこまで書くんかい」と笑ってしまったが、振り返ってみれば、これはフロムが愛の技術について語るうえで不可欠な記述だったのではないか。それは対象という外部を求め続けて失敗する人間にとっての最大の問題が、実はその人間の内部に潜んでいることを示したかったからであり、自己に深く沈潜することを忘れ、外部の趣味で何かを誤魔化している現代人に対する痛烈な宣告となっているのである。損して得取れ!とも言うが、フロムにとっては、初歩的な習練も行なっていない人間が、何を驕慢に恋愛について語っているのだと言いたいところであろう。最後に、鈴木晶氏の訳文と解説も一級品であり、”何度も読み返す本”とはこういう本なのかと読後に感嘆したのであった。

カテゴリー: 未分類 | コメントする