恵文社(けいぶんしゃ)を愛でながら。

近頃の書店は、2種類に分岐してきている。
一方は倉庫型の書店で、他方はアルバム型の書店である。
今日は、偶然出会ったすごい本屋さんについて考えてみたい。
倉庫型の書店
倉庫型の書店は、全国津々浦々、都市の中心部に立地する大型書店であり、固有名を挙げれば丸善、ジュンク堂、紀伊國屋などである。これらの書店が重点をおくのは「網羅性」である。つまり、倉庫のように、整理番号が振られた書籍を淡々と配架していく。倉庫型の書店では、網羅的であるがゆえに、入店後何も考えず、ピンポイントで従前から欲していた書物を特定できる。入り口付近に設置された検索機を利用するもよし、書店員に書名を伝え、書棚まで案内してもらうもよし。めぼしい書籍が確定している場合、大型書店は重宝する。ここには一切合切、ストックされているという期待がある。網羅性について言えば、専門書の類も在庫が多数あり、学生や院生、教授陣、その道の専門家にはもってこいである。
さらに大型書店では、書棚の角や入り口に平積みされた赤マル急上昇中の人気書籍を一瞥すれば、それだけで今日の流行を把握することができる。つまり、「報道性」がある。新聞記事で特集されるような新出のテクニカルタームや流行語を冠した書籍は陸続と出版されている。ChatGPT、生成AI、芥川直木受賞作、老後問題、受験対策、近頃の流行を先取りした書籍が眩暈を巻き起こす勢いで並べられている。
あるいは、新書コーナーをそぞろ眺めれば、こんな本もあったのかと町の小型書店には置いていない、発行部数の少ない書物を手に取ることができる。岩波新書などでは版の古い新書も手に入る。そう、偶発的な「発見性」がある。町の小型書店では見たこともない書籍に出会う確度が高い。稀覯本や古書でなくとも、岩波文庫からラノベまで、国語辞典から図鑑まで、広汎に亘る「教えといてくださいよ」的な書物が幾多、収蔵されている。
アルバム型の書店
如上のように、強引ではあるが一旦、大型書店の代表的な特質を整理してみたところで、アルバム型の書店という存在について考えてみたい。
僕はある日、京都で個性的な書店でもないかなとインターネットを漁っていた。すると、2010年(僕がまだサッカー小僧だった頃)に英国のGurdian誌にて「世界で最も美しい本屋TOP10」に選出された、恵文社一乗寺店という本屋を知った。叡山電鉄の一乗寺駅から徒歩数分のところにある。行動派の僕は早速足を運んだ。そして数分後、度肝を抜かれた。その書店は、店自体が一つの本を読んでいるかのように、書物を有機的に配列していた。これは何なのだ。極めて名状しがたい体験だったので、いまだブログにしたためられるのか、二の足を踏んでいる。
先ず、その本屋には「文脈」がある。しかも暗示されたカタチで。これは、カテゴリーごとに区分けされた書棚を無機的に並べ続ける大型書店とは全く違う。書棚と書棚の間に境界がない。本と本が溶け合っている。僕たちは大型書店に入る時、本と本の「あわい」について考えることはあるだろうか。少なくとも僕はない。そもそも考えさせる機巧がない。なぜなら、整理番号ごとに配架された書物たちは、相互に独立し合い、一つ屋根の下で半ば強制的に同居しているからである。しかし、考えてみれば書物とは文章の集合であり、文章とはテクストの集合である。テクストの間には必ずコンテクストがある。テクストからなる文章、文章からなる書物。この連関を考えれば、書物自体が一つの次元を形成し、その書物間でいくらでも文脈(コンテキストならぬ「コンブック(書脈)」)を作り出すことができる。
※恵文社の書棚には、派手派手しいPOPや宣伝文句の看板が殆どない。
大型書店が提供してくれるのはあくまでも「点」なのである。先ほどあげた「〜性」を再読してほしい。全て点なのである。僕は一介の学徒として、これからの本屋を案じている。かつては、古書店や個人書店の特性を活かし、店主との対話や、書店員との歓談をフックに新しい本屋を創造してはどうかと安直だが考えてみたこともある。本屋に書評家が常駐したり、本から本へ(©︎松岡正剛)と人を媒介に連鎖していくような書店だ。しかし、恵文社の場合、書物が「自立的」に書脈を形成している。むろん、その配列を案出しているのは恵文社とて店員という人間であろう。ただ、あの配架からは、書物という個が相互に交渉し合うことによってしか生まれない、一種の創発(個と個の単純な加算では生まれない全体)が体験できる。
サブスクとしての大型書店
例えば、音楽について考えたい。ビートルズが初のコンセプトアルバム『Sgt. Pepper’s Lonely Hearts Club Band』を発表したのは1967年のことである。このアルバムを境に、世界の音楽界は曲単位ではなく、一定のコンセプトをもとにしたアルバム制作に舵を切り始めたと言われる。それ以前の音楽史においては、エルビス・プレスリーを筆頭にラジオでの音楽放送が一般的であり、ラジオが扱う楽曲は基本的に1曲単位でのヒットしか生み出さなかった。しかし、ビートルズの自作自演スタイルとその主題設定によって、音楽はアルバム単位で世界観を提示する芸術へと傾斜していく。そして今日、音楽といえばサブスクリプションやストリーミングが波及し、ラジオ時代への先祖返り(一曲単位でのブーム)が起きている。
とどのつまり、「点」と「線」の異同が肝なのだ。点で受容するか、線で受容するか。大型書店は、音楽のサブスクを彷徨しているような、ブログ記事をネットサーフィンで探しているような感覚だ。大型書店は実体化されたデータベース(倉庫)なのである。そこには点の集合はあるが、線がない。
Aという本の横にBという本があるということ
大型書店の光景は、ポストモダン的である。ある種のスーパーフラット(©︎村上隆)である。全てのカテゴリーが等し並みに扱われ、段差がない。点の集合体。冒頭の通り、それはそれで面白いし、大切だ。とはいえ、僕はいまだにアルバムが好きだ。一口に言えば、僕にとってのアルバムの利点は「文脈の中で曲が聴けること」だ。コンセプトアルバムというのは字義通り、制作者のコンセプトに基づいて選曲がなされ、曲順が決定されている。それは「こういうふうに聞いて下さい」という暗々裏のメッセージを与える。それは、1曲単位から一歩引いた、アルバム単位での曲の意味を考えさせてくれる。時には高圧的に聴こえるかもしれない。だが裏返せば、「こういう聞き方があったのか」という示唆を与えてくれる。これは受動的ではあるが、一種の愉悦だ。点と点が繋がる経験だ。私は恵文社にて、本においてこのアルバムのような体験をした。
恵文社の書棚は、Aという本の横にBという本を置く意味を来店者に考えさせる。「考えさせる」という点が大切で、そこには発展性がある。書物と書物が連なって、語りかけてくる。書物はそれ自体にテクストの束が収録され、それだけで完結した文脈を持ってはいるが、書物同士のコンブック(書脈)を介すと、また異なる文脈が顔を見せる。君をこんな世界に連れていってあげよう、と。文脈は「点」だけでは発生しない。一定の連なりを持った「線」からしか生まれず、その線を作る作業が必要になる。点を自分だけで線にする作業は、はっきり言ってその道の専門家や歴史家でない限り、はなはだ難儀な作業である。恵文社はその書棚において、線作りの範例を提示してくれる。そうすると、その線作りを受けて、書物同士の文脈を読者が考え、再度編み直すこともできる。少なからず僕は本屋の中で、斯様にも”発展的な”書脈作りをしているところには行ったことがない。心底感動した。
そもそものはなし
今の時代、「情弱」などという言葉を平然と放言する方もいらっしゃるが、はっきり申し上げて、知の広大さを舐めないでいただきたい。人に情弱と放言できる人間は、自分はあくまでも情報の全体を知悉しているという言外の驕慢さがある。なおのこと情報社会が加速する現代において、知的な点と点を接続する「線づくり」はしち難しい作業と成り果てている。そもそも情報洪水の中で何を基準に本を選べば良いのかも不透明であるし、人間の時間には限界がある。それを一目である程度把捉できてしまう書棚が、恵文社にはある。アルバムが「聴き方」を教えるように、恵文社は本の「辿り方」を教えてくれる。
本について語れる人が激減してきている近来、書物たちが自生的に棚の中で「書脈」を織りなす、恵文社という稀有な本屋を今後も応援していきたいところである。
・恵文社一乗寺店 HP
https://www.keibunsha-books.com/
※ コンブック(conbook)は「本脈」としても良かったのだが、既に使用例があるとのことで、書脈を採用した。