モードの迷宮 〜流行を超えて〜

 パスカルは、無限に対しては虚無であり、虚無に対してはすべてであるような、宙吊りを生きる我々の状態を「人間の不釣り合い」と言った。人は、根源的なディスプロポーション/不釣り合いを抱えながら、それでもプロポーション/釣り合いを目指して生き続けている。モードとは、まさにこの背反する人間に与えられた、背反する現象である。鷲田清一は『モードの迷宮』(ちくま学芸文庫)において、ファッションを中心に展開されるモード(mode)とは一体何なのか、そのモードが人間に与える毒と薬を、迷宮を駆け抜けながら模索する。

 ファッションは本来、服飾や衣服のみを指す言葉ではなく、様式(mode)を指す言葉である。現代はファッショナブルなものが際限なく移り変わり、モードが浮遊する時代である。ファッション業界はシーズンごとに流行を取り替え、つい先ほどまで時代を照らした美品が数週間、数ヶ月でオールド・ファッションへと格下げされていく。その流れは止まることを知らず、必ずしも身体を蔽う衣服のみに限定されるのではなく、美容整形などを通して身体そのものへと浸潤していく。モードはその内容物ではなく、徹底した形式主義を露呈する。この形式主義が身体政治/body politicsという名の下に我々へ伝染し、身体の対象化とその狂熱を呼び覚ます。問題は衣服のモードではない。モードという観念である。

 鷲田の問題系はエロティシズムとアイデンティティに二分され、両者がモードと絡み合う。19世紀後半を彩ったヴィクトリア朝の時代、人々は美徳という名目で数々の装飾品を用い、身体を規範に馴化させた。窒息するほどの閉塞感を伴うコルセットを装着し、ガーターで足を痛め、ペティコートを何枚も重ね合わせた。身体から規範が生まれるのではなく、規範に合わせて身体を作り変えた。ある種の強迫観念とともに。然しながら、美徳という名のもに隠蔽という行為が過剰化すればするほど、暴露することの悦楽をかき立てた。身体そのもの、肉体のどこか特定の部分が肉感的なのではない。それは人間の観念を通じて紡ぎ出される「隠蔽と暴露の循環」の中でこそ成立する。ここに、エロティシズムの動性がある。

 衣服は「違う自分になりえる」という自己解放のヴェクトルと「このままの自分でいたい」という自己同一のヴェクトルを渾然一体と内包する。すべての衣服は変身者の遊び場であると同時に、ある種の制服(uniform)である。鷲田は、対象化された我々の衣服や身体を「可視性」と名づけ、「可視性の様式」を論究した。別けても、衣服や身体という具体物を超え、我々の観念がモードを編み出してく過程を追究した。観念は常に彷徨う。思考の産物であるからこそ、常に別様の可能性がありえるという存在論的なおぞましさがある。ズレ、差異の存在論的なおぞましさ。その空隙に呼び付けられたかのようにモード、なかんずくファッションのモードが顔を覗かせる。モードとは、裏切られることを前提とした相棒のようなものであり、予測不能な更新を繰り返す。衣服のモードは、着る人の同一性や独自性を差し出すかに見えて、早々の棄却を迫る。助け舟を見せておいて対岸には辿り着けない。ここにアイデンティティの動性がある。

 身体の改造が自明視される時代に「衣服と自己」、「身体と自己」はどのように関係し合うのか、本書は絶好の対話相手となるであろう。

 

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