【第37回 下鴨納涼古本まつりに赴いて】

 先頃、第37回目となる下鴨納涼古本まつり(8月11日~16日)に赴いた。開催場所は、盆地の京都で涼を取るには好適すぎる下鴨神社の「糺の森」だ。

 訪れた人は皆、出品された書物に無我夢中だった。京都古書研究会(Kyoto Antiquarian Book Workshop)という団体が主催している。京都の古書店だけでなく、神戸から三重まで数多くの本屋さんが臨時の書棚を並べ、出店してくれている。店頭の台にも「1冊200円均一」や「3冊で500円」と記された紙が掲げられ、文庫本が仰山並べられていた。ほとんどの本は多少なりとも参道の砂埃をかぶり、それほどの人が行き交っていたのだという証左であった。

 行き交う人の肩と肩がぶつかり、普段なら「どこ見て歩いとんのや」と強面でがなりそうなおっちゃんも、片笑んで「すんませんなぁ」と謝っていた。確かに「こちとら本見て歩いとんのや」と正論で返せば、おっちゃんも絶句していたであろう。何より、おっちゃんも本を見て歩いていた。どっちもどっち。その一幕が滑稽なようでいて、その実、本の底力を映し出していた。

 BOOKOFFしかり、街の書店しかり、本との偶発的な出会いは常から転がっている。そんな中、敢えて古本まつりに出かける理由は、平日の午後に行く書店とは比較にならぬほど同好の士、つまり愛書家が集まっているからである。これはむろん、インターネットでは体験できない。眼差し、息遣い、身振り手振り、挨拶、肉声、様々な五感を通して入力される情報によってぼくたちの共同性は維持される。肩がぶつかるほど夢中で本を熟視し、譲り合いながら配架された書物を手に取る。畢竟、まつりは1つの居場所である。

 糺の森の放つ、馨しい草木の匂いを全身で感じる。
 私は鳥居から入って左に出店していた、京都は下京区にある「三密堂書店」が好きだ。かつて赴いた折も、フランスの哲学者ジャック・デリダを解説する挿絵満載の奇っ怪な文庫本(ジェフ・コリンズ著)を発見して、一驚したのを覚えている。古本のオモロさはここにある。「偶然の出会いなんて」と人は言うが、存外偶然出会う良書は多い。

 前述した古書研究会は会員店を募集しており、今回もその会員店の中から多数の書店がテントを構えていた。御蔭通に抜けるどん突きには喫茶コーナーも設けられており、かき氷やコーヒー片手に古今の良書を巡ることができる。他にも、古い木版画や映画のリーフレット、DVDなども中古で販売されている。鳥居から向かって左手の中ほどにあった京都スターブックスさんは、店主一推しの本がレジスター横に配置されており、本の後ろには必ず人がいることを教えてくれる。出店した本屋の店員さんは皆、微笑んでいた。はいらっしゃいと破顔する。連日の猛暑を物ともせず出店してくれた本屋の皆さんには、本真に頭が上がらない。

 松岡正剛さんがいつしか「本は口を開いてくれない」という趣旨のことを書いていたが、本は人の口を通して開くことが多い。外国語訳するのが小っ恥ずかしいほどの自己啓発書やビジネス書が仰々しく陳列された大型書店の入り口。うら悲しさとともに込み上げるのは、これは平生、口を開くことができない本からの、救いを求める叫喚ではないだろうか、という歯痒さである。本には”あわい”がある。その空隙をつなぐのは、人しかいないのではないか。本に息吹を吹き込むのは著者。その息吹を託かったのは、私たち読者である。

 実体論と関係論は異なる。実体論とは、勉強嫌いな生徒が急増しているのは偏差値が諸悪の根源なのだ!というような、単一の要因を指摘する方法論。関係論は、玉突き的に偏差値の周辺にも何か要因があるのではないかと探索していく方法を指す。活字離れ、出版不況などは全て単一の事象ではない。それを取り巻く人の姿勢にも、目を向けたい。

 ちなみに私は4冊を入手した。中央公論の日本文学シリーズ3冊(武者小路、田山花袋 etc.)と、筑摩書房から出ている佐伯彰一さんの『アメリカ文学史』。降りかかった砂埃も、一つの思い出として読んでいきたい。私が赴いた最終日は16時までと営業時間が1時間短縮されていたので、急いでレジの清算を済ませた後の帰り道、入り口付近のスピーカーから吉田拓郎の『全部抱きしめて』が流れていた。夢中で手に取った古本を抱きしめながら、下鴨本通の駐車場へと向かっていったのであった。

※今秋、10月31日(木)~11月4日(月)にも、同じ古書研究会が主催する「秋の古本まつり」が百万遍、知恩寺の境内で開かれる。こちらは48回目の開催を記録する。

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